確率の神の話
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20110217
こういう話は確率の問題をどのように数学で定義しているかっていう哲学的な話が繋がってないから、数式だけ見てこれとこれの違いが分からないってことになってるんだと思う。
確率は突き詰めていくと、いつかは人間には分からない領域まで到達するわけで、例えば計測の誤差みたいなものは、人間が観測できるのは誤差の総和だけで、各々の誤差の要素はよく分からないとかそういうもの。
でも、人間に分からない領域だからなんでもありというのでは何も進まないわけで、以下のことぐらいは保証されてるとみなそう。これが第1の原理になる。
全ての確率的な現象はさいころと同等の現象である: 起こりうる結果全てからなる集合Aが定まる(さいころだと#A=6) Aからランダムに一つ結果が選ばれる どの元が選ばれやすいかはA上の測度で定まる
一つの現象だけ考えるならこれで十分だけども、複数の現象がある場合はこれだと困る。
もしかしたら現象Aと現象Bにはなにか関連があるかもしれない。それを表現する方法もないといけない。それは集合A×Bというより大きなさいころがあると思って、AとBの結果は大きなさいころの結果の一部だと思えばよい。
そうやってどんんどん大きなさいころが必要になってこれではきりがないので、十分に大きなさいころが最初から一つ与えられていることにしよう。これが第2の原理になる。
神だけがさいころを振る: 神のさいころがひとつだけある 神が一回さいころを振るだけで、ほかの全ての現象の結果がひとつに定まる
この神のさいころのことをΩと呼ぶ。
神の結果には全ての確率的現象がエンコードされてるので普通は理解できない。
神のさいころの目から人間にも理解できる結果を読み出す装置が確率変数である。
では、確率分布というのはなんだろう。
それは人間にも理解できる確率測度のことだと思えばよい。
(Ω,F,P)のPはΩ上の確率測度ではあるがこれを分布とは呼ばない。神のさいころの法則などは人間には理解できないものだからだ。
人間にも理解できる測度というのはもっと制限されたもので、R上の確率測度(正規分布とか)、N上の確率測度(ポアソン分布とか)。確率変数も基本的に人間が理解できる結果なので、対応する分布を考えることができる。
という風に世界を二つに分けた見方が必要だと思う。
ωを省略するのは、もちろん全部書いてるととてもじゃないが大変なんだからなんだけども。見方によってはωは定数だと思ってもよい。
それは神はさいころを一度しか振らないからで、それだけですべてのランダムな結果が確定してしまうから。
ωが動いているように見えるのはたんに人間側に情報が不足しているだけで、その無知な部分だけぶれてるって見方もある。